駄文

GWももう終わりに差し掛かっているが、どうだろう、満足出来た休暇期間だったろうか。

まず第一に感じることは、長期休暇を振り替えって、それが有意義であったと思うか否かを考える必要があるのか、ということだ。

これはつまり思い出を作るために人は生きているのではなく、思い出になるような経験、その瞬間楽しいという感情がもっとも優先されるべきであるという話だ。

実際にどうであったか、と振り替えるとその時の感情事態は既に無く、頭の中のアーカイブを開き、あぁあの時私は楽しんでいたなと第三者として観測するしかない。

つまり、今自分が有意義か否かを考えて満足げな心地になったり、何もなさなかったと暗い気持ちになるも、それ事態にたいした意味はなく、結局のところ今楽しいという気持ちになることをすることでしか楽しくはならない。

 

今布団の上でだらだらと文章を作っているが、この瞬間にこの自分を楽しませられるのは何だろうか。何となくゲームをして、楽しかったり苛立ったりして、時間は過ぎて、と思うと暗い気持ちになる。

はあ、何もわからない。ここで言う何もわからないは考えることを放棄して休むことだが、そもそも下手の考え休むに似たりと言うが考えることは休まることではなく、だらだらと疲れる。

走るべき、運動するべき、という言葉が最近ずっと脳内に渦巻いている。運動さえすれば頭の中はスッキリすると言うのか。やってみないとわからないが、するとしたら大学に朝早く行き、荷物を置いて、運動ができる服装で走ればよいか。

ただやはり私にとって文章を書くことは、ある程度脳がすっきりする行為だ。

誰かが人はインプットした分アウトプットしないと気が狂うと言っていた。大袈裟のように思うが、どこかで人は勝手に独り言でもアウトプットを重ねており、それで気が狂わずにいられる、もしくは気が狂っているものは永遠にインプットしていられる。という話かもしれない。アウトプットとは排泄行為に近いが、排泄と言う言葉から感じるあまりにきれいでないそれは一旦脇に置いておくとして、世に言うアートなどと並列に置くとしよう。それらは人からアウトプットされたものとして同じものだ。評価されるかどうかはその評価のものさしによるためあまり頼りにならない。

夜に何時から何時まで寝ればちょうどよいなと思ったり思わなかったりしているが、ちょうど寝れたためしは殆ど無い。私が制御できることじゃないのかもしれないし、制御しようとしてないだけかもしれない。

馬鹿馬鹿しい文章を延々と連ねている。

絵を描いているときに感じる本当に落書きの中の落書き、あまりに価値がなく、真っ白な紙の方がまだ価値があると思えるようなあの感覚を文章にも感じ始めてきた。

それは筆者が同じであるだけ、同じような文章が作られるのは道理であるが、成長を感じないからこの指を動かした時間も何もかも無駄だったと感じて吐き気がしてくる。

ある人は自分の中で勝手に評価したりする人は自己満足で終えるため絵を描くことも文章も続かないと言う。外からの評価でやる人は続くと言う。だからといって自己満足をやめるべきと言う話ではなく、そもそものはなし絵も文章も勝手にやって勝手にやめればいいのだ。

だがその話をしたいわけではなく、プロならば仕事をくれる人を満足させるのが仕事だと言う話だ。アマチュアなら本当に自由だ。何も制限もない。この差はなんだ、プロも交渉次第では自由が増える。自分で自分に課す制約が多すぎてアマでかくほうがかけないときも多々ある。バカか私は。

そらそうだ、絶対的にバカでありそれは直らないし直らなくてもいいし、そんなことはもうすでにわかっている。

文章を書くと言うことで何か新しくわかるかと言うとそうではなく結局人は集合知が強い生物で、人と関わることでパフォーマンスが上がるからって....支離滅裂な文章やめたらほんと...

自分が満足したいのなら一定のテーマを決めて、最初に大きく抽象的に結論書いて第一に第二に故に結論に戻るみたいな流れで書いたら良いのだろうか。

 

自己満足を人生の楽しみとして生きるには成長を感じるまで、時間がかかりすぎるかもしれない。だから定期的に外部から評価されるとき、大学ならば定期テストなどできちんと点数をとるべき、私なら他と比べてより取るべきなのかもしれない。

 

外部の評価で自分の評価をしない方が良いと言う論調が最近というか数年前と言うかネット上ではよくあるとおもうが、自分のなかで自分を楽しめさせられる能力が無いのならそれはやめるべきなのかもしれない。外部の点数を取るような評価はやればとれるものがあるし、内部の評価はじぶんでもとてもじゃないがわからない。そうなると向き不向きの話になりそうだ。(駄文)