文章を描くのが楽になったのかもしれない

頭のなかにいた彼らは何処からからか得られていたのであろう栄養を今は得られずにいるようで、

今私が得た栄養はほとんど私に使われているように思える、いや、思いたい。

 

最近私はtwitchやyoutubetwitterなどを見ては余りに無下に時間を潰している。

見る対象の彼らは何だかんだ何かをしていたりしていなかったりする。私は横になりスマホなりPCを横にしてはぼーっとしている。四、五時間スマホを見ていたと思えば電源は切れてしまい(充電はなくなり)、充電器に刺しては私は手持ちぶさたになる。

 

絵を描こうか、いや、描かない。

 

私の趣味として絵を描くことがあったと思う。いや、趣味という言葉に当てはまるようなほどその描画行為をしているかというとそうではないのだけれど。

いつのことだか、描かないといけない気持ちにさせられるときがありその焦燥感と無力感に嫌にさせられることがあった。

故に今はあまり気乗りしないから暇潰しにもできない。

私にとって絵を描くことは受験勉強の際には大きな暇潰しであり、気をそらすことにもなっていてとても大事なことであった。

何か物凄い絵を昔見てそのような絵を描きたいと心に灯したわけでもなく、どちらかというとどのような絵を見ても色合いや構図などもっとましな絵に出来ると思いながら日々絵を見ていた。

それで、受験勉強の際には数時間の勉強が集中できない状態であるのにも関わらずそこから人体解剖図を開いて模写なりすることはたいして苦しくなく数時間はゆうに過ぎる行為であったためそれは私にとって特別な行為に思えた。

今はもう、どこから来るのかもわからない焦りからかその行為に学べることが少ないと感じるのか分からないがあまり集中できることではない。わからない状態だ。

わからない状態というのは数年後この気持ちを思い出すことなく過ぎるという可能性を持っており、またわかる状態になったらおおよその可能性でわからなかった状態というのは未来の私に蔑ろにされうる。

今の私の暗遊状態を確かなものにするのは今の私か少し先の未来の私だけであるように思える。

 

文章を描くことが楽になったとかタイトルにつけた気がするが全く関係ない話をしている。まあそれはどうしようもないことだと思う。私は話をしようとしているメインの幹からどんどん枝分かれしてしまう脳の構造をしているのだと頭の中の彼らにとことん教わった。悪性のものも必要であるがあまりに割合が重いとその枝は幹より太くなりぶち切れることがあるとも知った。

悪性のものも必要であると書いたものの、手に終えないもので恐れを抱いてるようなものであるからあまりに適当にまとめすぎた気もする。心の悪性というのはかつての日本人がそうしていたように適当に祀っておいて神にしておくようなものなのかもしれない。わからないし私が近づいた結果あまりに苦しかったために私は適当と言われても仕方ないスピリチュアルなことを言ってしまっている。このカタカナの横文字の感じが本当に気色悪い。気色悪いのは私だろうが。

 

絵においてそこに存在させたい立体を描こうとしているのに何も意図せずに無意識に線を引くことはどれほどの罪を背負っているだろうか、文章と比較したらどのようなものかと考える。

それはつまり私たちが文章を構成することが絵を描くことで、理解する知の技術の話ではなく色々な人間が作った構造物である文章をそのように真似ることが実践で得られる技術と思う。

無に(白に)描きなれたように思える不完全な線を引き不完全なパターン化された形を作りそれにあわせた形を追わせるようにつくることの虚しさはひどいものに思う。ただそれを私は何回も繰り返している。

理想をまず持ちそれに呼応するような筆と資料を探すことが優等な動きに思うが、インスタントに描いた理想は、いや描けてさえいないのだけれど、それほど心に灯をともさないし、灯したところで燃える油は心に貯まっていないように思う。

じゃあどうしたら良いのかと思うけれど、このよう考える時点で何か人が持つような(私を含む)理想を描きたいという気持ちは残っていることを自覚できる。これは本当にかすかな気体のようなものでどこか気になるがそれ事態はエネルギーとはならないらしい。

元風景に戻りたいが今日じゃないようだ。